佐々木和之さん、恵さん ルワンダでの生活2006年分

 



2006年10月2日
「ルワンダから佐々木恵です」  NO8

 皆さん、いかがお過ごしですか?日本は大分涼しくなり、過ごしやすくなってきたでしょうか?
 ルワンダは、急に天候が雨季らしくなり、朝晩冷え込んできました。雨季に入る直前は、季節の変化を知らせる強風が吹き、赤土を巻き上げていました。雨季と言っても、日本の梅雨とは大分違い、ざーっと降った後はまたすぐに道路も乾き、洗濯ものが乾かないといった心配はほとんどありません。
 さて、ルワンダからのお便りは、8月・9月はお休みさせて頂きました。その間、泥棒に入られたり、ギセニへ旅行に出かけたり、日本からのお客様をお迎えしたり・・・・いろんなことを経験しながら、ルワンダの生活にも大分慣れてきたように感じます。
また、このごろ町の中心に大きなスーパーマーケットができ、ルワンダの暮らしもどんどん便利になってきていますし、ルワンダ語の学びにも手応えを感じている今日この頃です。しかしまた同時に、主の守りなくしては、一日も過ごせないことも体験しています。どうぞこれからも続けて私たちのことを覚えてお祈り下さい。

 和之は、ルワンダに来て今日でちょうど一年経ちました。色々なことのあった一年でしたが、これまでの主の導きに感謝しています。また、とても嬉しいことに、15年来の友人竹内みどりさんが、9月26日にキガリに到着されました。和之が6年前まで働いていた日本国際飢餓対策機構(JIFH)から国際飢餓対策機構ルワンダ(FHI/Rwanda)に派遣され、これから3年の予定で働かれます。竹内さんがルワンダで働けるようになることは、長い間私たちの祈りの課題でしたので、このことは本当に大きな喜びでした。また、今月の末には、バプテスト女性連合より3人のお客様をお迎えします。神様によって、このように主にある交わりを頂けますことを心から感謝しています。





「突然電源をカットされたこと」

 先日のこと、電気水道会社の人が突然家に来て(ルワンダでは電気と水道は同じ会社が管理している)、電源スイッチを切り、その電源ボックスに鍵をかけて行ってしまい、電気が全く使えなくなってしまいました。ルワンダでは、電気は電気水道会社に行ってキロワットごとに買います。そのときにもらう領収書には番号が記載されており、自宅に設置されている電源ボックスにその番号を入力すると、電気が使えるのです。買った分のキロワットを使用してしまうと、電気は自動的に切れてしまいます。各家に設置されているその電源ボックスは、電気水道会社が管理していて、水道代等こちらに支払いの不備があると思われると、突然やってきて電源を切り、ボックスに鍵をかけていってしまいます。

その日は、調度私たちは外出していました。「水道代に不払いの疑いがあるので、今までの領収書をみせるように。」ということでその会社の係の人は来たらしいのですが、領収書は和之の書斎の中。対応した番人のヴィエナでは提示できなかったので、係の人は勝手に電源を切って、そのボックスに鍵をかけていったというのです。私たちは、水道代は毎月きちんと払っていましたので、何の前触れもなくやってきて、勝手に電気を切っていくという暴挙にとてもびっくりするとともに、腹が立ちました。
そのうえ、提示を求められた領収書をその会社に持って行き、鍵を開けてもらうように要請すると、係の人の行き帰りのタクシー代まで請求されたのです。会社側の記録管理の不手際にもかかわらず、こちら側に責任を押しつけてきて、そのうえタクシー代まで請求するという事が、当たり前のように行われているのです。こういった経験は今回だけではありません。そのまえには、私たちがこの家に入る前の住人に水道代の未払い分があったらしく、やはり突然やってきて、こちらには身に覚えのない未払い分の処置として電源のスイッチを切って行ったのでした。もちろんこの時も「未払い通知」なるものが来るわけでもなく、係の人が突然やってきて、事情を一方的に説明して電源を切っていき、しっかりとタクシー代も請求されたのでした。

このときに一つ驚くことは、ルワンダ人にとってはこういう会社側の権威主義的行動が暴挙とはうつらずに、こちらに落ち度がないにもかかわらず、受けてしかるべき対応として許容できるようなのです。番人のヴィエナに聞いても、ルワンダ語の先生のダミエンにこのことを話しても、「相手が電気水道会社だから・・・」というのです。反対に私たち夫婦が電気水道会社に対して怒っている事が不思議なことにさえうつるようなのです。この会社が、前は電気水道の公社だったということも一つの大きな要因です。公社から一般の会社になった今でも、国の機関に見られがちな権威主義的な態度がそのまま引き継がれているようなのです。ルワンダでは、そういった態度に人々も疑問を持たないケースが多く、それに慣れていない私たちにとっては「腹の立つ」ことが多いのです。そういう日常生活の一つ一つの小さいことに憤りを覚えることもあり、こういったことで疲れを覚えることも少なくありません。





「泥棒」

8月17日の午前3時過ぎ、犬の鳴き声で目を覚ましました。日本に帰国中の友人から預ったアンジュの声です。預って二日目でしたので、「よく吠える犬だなあ・・・どうしたんだろう?」と様子をうかがっていますと、しばらくして夜警のフォースティンが、寝室の窓をノックするのです。
あわてて起き出し何事かと玄関を開けると、フォースティンが興奮して、「泥棒が入った!」というのです。彼は涙声で二人の男が芝刈り機とプラスティックのガーデンチェアを抱えて、塀を乗り越えて逃げたといいます。詳しく尋ねてみると、彼が人影に気づき、家の裏に回ったら、二人の男を見つけたので、隣の夜警を加勢に頼もうと呼びに行ったのですがその間に逃げられたらしいのです。後を追ったもののまだ敷地内に誰かいるかもしれないと、戻ってきたと言う事でした。フォースティンがいたのにどうして塀を乗り越えて人が侵入できたのか?彼が居眠りをしていたのかもしれませんが、ともかく、この家をねらって、夜中に泥棒が侵入したと言う事実に落ち着かず、不安を覚えました。

次の日、和之とフォースティンが早速警察に行き事情を説明したところ、一番に疑われたのは夜警のフォースティンでした。そういうはずは絶対にないと思ったので、その旨を伝える趣意書を提出してフォースティンと一緒に帰ってきましたが、問題が解決されたわけではありません。このごろ私たちの家のすぐ近くでも、外に置いてあった小型発電機が盗まれるという、同じような手口の事件のあった家もあり、キガリ市内の治安は悪くなってきているようです。
結局、キガリに住む多くの外国人同様、夜間に関しては警備会社から夜警を派遣してもらうことになりました。ところで、泥棒の入ったとき、愛犬クッキーはいったいどうしていたのでしょう?鳴き声一つたてるでもなく、きっと、しっぽでも振っていたのかもしれません。





「デニスさんの学校」

和之の働くリーチの理事の一人に、デニスさんという方がいらっしゃいます。デニスさんは、「ピース・インターナショナル・スクール」という生徒数80名ばかりの小さな学校を経営していらっしゃいます。先日、9月23日に子供達とその学校を訪れ、色紙を教えたり、一緒にその折り紙で遊んだりして2回目の交流の時間を持ちました。学校と言っても、デニスさんの自宅を改良して造ったほとんど設備はないに等しい、校舎があるだけの学校です。通ってくる子供達は公立の学校にいけないコンゴ難民の子供達が多く、その中の多くの子ども達は学費も払えない状況です。鞄もない、ノートも持っていない子供達が多く目につきました。そういう状況の中で、デニスさんは1年のうち半年ばかりカナダに出稼ぎに行って、そこで手に入れたお金で学校を運営して来たのです。でも、今年は出稼ぎに行く事ができず、先生方に払う給料もなかなか工面できずに、給料を遅らせたり、減額したりして対処しているそうです。それでも、先生方はとっても熱心に教育されていました。デニスさんの子供達の教育に対する熱意に動かされて集まってきた人たちなのだと思いました。

                    

 デニスさんは1959年におこった争乱時の、ルワンダ難民の子としてブルンディで生まれ、そこの神学校を卒業した後、ケニアでの生活を経て、カナダでソーシャルワーカーとして働いていました。1994年、自分の国で起こったジェノサイドのことを知り、いてもたってもいられなくなり、ルワンダにいる親戚を訪ねて一時帰国します。そうして、いったんカナダに帰るのですが、やはりルワンダのことが気になり、1995年、安定したカナダでの生活を捨ててルワンダに帰ってきました。その時、路上にうち捨てられたように生活している子供達に心を痛めたデニスさんは、この子供達のために絵画教室を開いたのでした。絵を描くことで、ジェノサイドの心の傷をいやしていけたら・・・との願いでした。10人ほどの生徒で始めた絵画教室の噂を聞いて、生徒数はだんだん増え、最終的に2期6年、合計100名あまりの生徒が学校を卒業していきました。
卒業生の多くは、今では町でミニバスに絵を描いたり、看板描きの仕事をしているらしく、その子達がデニスさんを見かけて飲み物をおごってくれることもあるらしく、デニスさんはそのことをとても嬉しそうに話してくださいました。

                   

私たちの行ったピース・インターナショナル・スクールは、デニスさんが自宅のまわりにいる学校にいけないこどもたちをみて、2000年に始めた学校です。「私も貧しいけれども、もっと貧しい人がいる。」「経営の事を考えたらやっていけない。自分がやれることをやっていくんだ。」とデニスさんはいいます。私はこの時、すぐに奥様の事を考えていました。自分たちの生活を削るようにしながら他人に仕えていくデニスさんの生き方は、奥様の同意と協力なしには到底できることではないと思ったのです。お会いした奥様はとても優しい笑顔で私たちを迎えてくださいました。デニスさんは、彼女がいなければ、この仕事はやって来られなかったといいます。
ところで、デニスさんには4人の娘さんのがいらっしゃるのですが、上の二人の名前はマナちゃんとソノミちゃん。昔ケニアでお世話になった日本人のお子様の名前と同じだそうです。6歳のマナちゃんはピースインターナショナルスクールの一年生。この日、生徒に混じって、太鼓を上手にたたきながら歓迎の歌を歌ってくれました。これからも、デニスさんの学校との関係を深めていきたいと思っています。

                    


*デニスさんについては、『世の光』2007年1月号(バプテスト女性連合発行)にも掲載される予定です。


《感謝》
 ・ 15年来の友人竹内緑さんが、FHIルワンダでの働きを始めるために9月26日にキガリに到着されました。
  主の計り知れない導きに感謝します。
 ・ 和之がルワンダの生活を始めて一年が過ぎたこと。
 ・ ピース・インターナショナル・スクールとの交わりが与えられたこと。

《祈りのリクエスト》
 ・ 子供たちの日本語の勉強が維持できますように、また、彼らもイエス様の愛を知ることができるように。
 ・ 現地の方とのよき交わりが与えられますように。
  特に、ピース・インターナショナル・スクールとの交わりが主にあって豊かにされますように。  
 ・ 和之と私のルワンダ語が上達しますように。
 ・ 毎日の生活が主に守られますように。
                                               2006年10月2日

2006年8月15日掲載

「主にある希望」

 

 6月のはじめ、和之の働くリーチが主催する「和解セミナー」に、初めて参加させてもらいました。
今回のセミナーはたまたま女性対象で、3日あるプログラムの最終日でした。場所はキガリから車で45分ほど東に走ったところにある「ルワマガナ」という東部県の県庁所在地です。改築中の建物の一室には、60人くらいの女性が集まっていました。
この日の講師はリーチ職員で牧師でもあるフィデルさん。フィデルさんのお話の中で耳に残ったルワンダ語は「インババジ」。インババジとは「慈悲・赦し」を意味します。フィデルさんはこの「インババジ」という言葉を何度もくり返し、
聖書のみ言葉を用いながらお話をなさいました。セミナーの後半は参加者による体験の分かち合いがあったのですが、ジェノサイドの経験を実際に聞くのは、マホロマスタジアムであった追悼記念集会のとき以来でした。しかし今回は、本当に小さいセミナーの中で、顔と顔を合わせて聞くという、前回とは全く違った体験で、一人一人の体験の重さに圧倒されました。しかしそこで経験したことは、まさに「主にある希望」の体験でした。

 ジェノサイドの暗い・重い・辛い経験を持つ彼女らは、今もその苦しみの中で生活しています。自分の中にある憎しみ・人から受ける屈辱・家族の抱える苦しみ悩みは、決して過去のことではなく、今現在の彼女らの苦しみ悩みなのです。しかしその中にあって主にある癒しを経験し、自ら新しい一歩を歩み出している人、踏み出す決心をした人たちが与えられているのです。ある老年に差し掛かった女性は、自分の子供たちを、雇っていた使用人に殺されるという経験を持っています。しかし彼女はその元使用人たちを刑務所に見舞い、彼らが出所した後も援助を続けているのです。また、ある人は、自分の家族を殺した人が罪の自白をして出所してきた後、その人との和解を求めて自分から接触を試みました。何度も相手から避けられつつも、諦めることなく接触を続け、とうとうその相手に「私はあなたを赦しているよ。」と告げて、抱き合ったというのです。
           

またある人は、自分の母親との間に多くの問題を抱え辛い経験を持っているのですが、その母を赦し、今は年とった母の面倒を見ていると証してくださいました。彼女たちにとって、「主が私の罪を赦してくださった。」「主が共にいてくださる。」ということは、生きた力となっているのです。そのことを彼女らは確信しているのです。彼女たちがまず、主の愛によって変えられているのです。彼女らの証を聞いて、ひとりのまだ若い母親が立ち上がって証をはじめました。「私は今まで自分のおじ家族を殺した人たちをどうしても許せないと思い続けていた。でも、私は今日その人たちを赦します。」と語ったのです。また、新しい「主にある癒し」の道のりを歩みはじめる決心をした人がこの日与えられたのです。

 「主にある希望」がここにある!と、私はこのとき感動で胸がいっぱいになりました。主は今日ここで彼女らに語りかけ、働きかけてくださっていると知ったからです。主が、癒されそうにもない深い悩みの中にある人たちに、実際に働きかけかけていてくださるのを、私も目の当たりにしたのです。

テモテへの手紙二、1章12節でパウロは言います。「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」
彼女たちもまさにこのパウロのように、主が「わたしにゆだねられているもの」を知っており、彼女たちは主が「かの日まで守ってくださる」と確信しているのでしょう。自分の家族を殺した人を見舞う、助ける、「あなたを赦しています」と言って抱き合うという、人間の力ではできそうもない「わたしにゆだねられた」行為を、この女性たちが始めている。まず、この人たちが変えられているのです。それを実際に目の当たりにして、「主にある希望」がここに確かにある!と、感じたのです。

 

 実は、私は「主にある希望」と言うものが長い間ピンと来ていませんでした。主に期待はしています。
しかし、先のパウロのように「主に確信した希望」ではないのです。「今はわからないけど、期待しよう。」というていでのものです。しかし、今回の経験を通し、主は私に「主にある希望」をはっきりと示してくださいました。和解への道を歩み始めた彼女たちの道のりは、きっと、困難の多い険しい道のりだと思います。しかし、主が共にいてくださいます。
また、共に歩む友の存在、このセミナーに集う友人たちの支えは大きいでしょう。私は、彼女たちから「主にある希望」を教えていただきました。感謝です。彼女たちが「主にある希望」を持ち続け、共に支えあい、和解の歩みを続けていけるようどうぞお祈りください。彼女たちは、セミナーの途中でも、最後でも、主への讃美の歌を体中で喜びたたえながら歌っていました。太鼓を叩き、シンバルを鳴らし、それに合わせて踊り、歌い・・・・私も彼女たちに合わせて手を叩きました。でも本当は手を叩きながら、彼女らの踊りの輪に加わりたいと思っていたのです。でも結局、一歩踏み出す勇気がなく、私はいすに座ったままでした。あの時、彼女たちと一緒に輪の中に加わり踊ればよかったと、今とても残念です。


「ルワンダに住むインド人」

いつも礼拝堂の左隅、ちょうど私たちの左側の座席に座っている2人のインド人がいます。私たちの出席している教会は、聖公会教会のインターナショナルサーヴィスです。ルワンダ人をはじめとして、アフリカのいろんな国からまたオランダ・アメリカから多くのクリスチャンが参加しています。その中にあってアジア人はマイノリティーです。ですからいつも同じ座席に座っているこの二人のインド人は私たちにとって気になる存在でした。

昨日の礼拝後、入り口の階段で初めて彼らに話しかけてみました。かれらは、インドのバンガロー出身のクリスチャン。ここにはコンピューター関連の仕事できていると言うのです。

バンガローでは人口のおよそ25パーセントがクリスチャンだと言います。地名のバンガローは、ベランダつきの平屋住宅、あるいは山や海で使う簡単な小屋を意味する「バンガロー」の語源となったところです。きっと早くからヨーロッパ人が住み、キリスト教も広がったのでしょうか?インドと言うと、ヒンドゥー教、それについでイスラム教が多いのだろうと思っていたので、この数字を聞いて驚きました。彼らに言わせるとインドの中の例外らしいのです。ルワンダに住むインド人は600人くらい。その多くが商業に従事していると思いますが、600人中20人がクリスチャン、あとは全員ヒンドゥー教徒とか・・・。彼らの勤める会社のインド人は2人のヒンドゥー教徒を除き、全員がクリスチャンだと言いました。

 また、共喜のクラスにはインド人の女の子が一人いますが、彼女の家族はキガリの町で電気屋を営んでいます。ガスレンジをその店で買ってからというもの、よくそこを利用するのですが、週に一回は品物の買い付けに国外に出るというのです。行く先はトルコ湾に面するドゥバイ、アラブ首長国連邦の都市です。ドゥバイでは、たくさんの商品が安く手に入るらしいのです。彼らの幾人かの親戚もキガリで同じような電気店を商っていて、目的の商品が店にないと、すぐに親戚の店を紹介してくれました。
話は脱線しますが、ルワンダにある多くの商品は食料品をはじめ、日用雑貨から電化製品にいたるまで、アラビア文字の書かれた商品がとても多いです。これらもドゥバイから輸入されてくるのでしょうか?ルワンダに住むインド人を通して知った世の中のことでした。

 


 「クッキーとビスケット」

 

 6月25日に、知り合いから子猫を一匹もらい受けました。黒とグレーの縞々トラ猫です。名前はビスケット。愛犬クッキーと仲良くしてもらおうと、相性のいい名前を選んだのです。ビスケットが我が家に来て2週間ほどたちますが、クッキーとの仲も落ち着いてきて、すっかり我が家の一員になりました。クッキーはビスケットが来てからというもの、興味はすべて彼女。朝、テラスにいるクッキーを部屋に入れると、まず私の前に座り込んで、体をなでてもらうのが日課だったのですが、今ではビスケットまっしぐら!彼女を見つけるまでは、部屋の中を必死に探し回ります。見つけると、舐めたりかんだり・・・・ビスケットにとってはいい迷惑です。あまりひどいときは私たちに怒られながら、それでもビスケットはクッキーにとっていい友達です。ビスケットのほうも機嫌のいいときには、クッキーに舐められるままにしています。ところで、日本の猫は、「プワッツ!」と口から息を噴射して威嚇するでしょうか?「シャー、シャー」言って威嚇するのはしっていますが、私は今までこのような猫を見たことがありません。ところがビスケットがこの威嚇方法を用いるのです。ルワンダ猫の特徴なのでしょうか?最初、その音を聞いたとき、誰がだした音なのか分かりませんでした。子猫とその音を結びつけることができなかったのです。そのくらいすごい音なのです。この「プワッツ!攻撃」にあうと、さすがのクッキーも逃げ出してしまします。きっと子猫のビスケットが自分の体の二十倍はあるクッキーに挑むには、これくらいの迫力が必要なのでしょう。このごろでは、この「プワッツ!」を聞くことも少なくなり、クッキーとビスケットの仲も穏やかな関係になってきたところです。


 「サッカーボールがきっかけで・・・」

 こちらに来てからというもの、息子たちが庭でサッカーボールを蹴ってよく遊ぶのですが、もうボールを2個もだめにしてしましました。そして、とうとう3個目のボールがついこの間から行方不明になっているのです。和之は、ボールを大切に使わない息子たちに対して、「もうボールは買ってやらないから、お前たちも、こっちの子供たちみたいにビニールを紐でまとめてボールを作って、それで遊びなさい。」と、怒っていました。こちらの子供たちもサッカーは大好きです。でも、もちろん、サッカーボールを買ってもらえる子供たちはほんの一人握りの子供たち。すぐ隣の教会の集会場で遊んでいる子供たちも、自作のボールでサッカーを楽しんでいるのです。

 ある日のこと、長男仁(12歳)の姿が家のどこにも見当たらないと思っていたら、ビニールを紐でまとめたボールを嬉しそうに抱えて持ってきました。隣の教会の集会場で遊んでいた男の子にボールを作ってもらったと言うのです。そして、そのお礼にチョコレートバーをあげたらしいのです。「あの子すごいんだよ。すごく上手に紐でまとめながら作るんだよ!」仁は、作ってもらったボールを自慢げに見せてくれました。そのボールはどこかで手に入れたらしい梱包用の空気の入ったビニールを荷造り用の紐できれいに編んでまとめてありました。

 私は、庭の隅に転がっている壊れて空気の抜けたサッカーボールを見ながら、またその一方で近所の子供たちが自分たちで作ったビニール袋のサッカーボールで遊ぶのを見ながら、私たちと隣に住む方々との生活の違いと言うこと考えさせられていました。もちろん、サッカーボールだけではありません。着るものも住む家も本当に大きな差があるのです。そんな中で生活しながら、サッカーボールが壊れたりなくなったりするとすぐに買ってもらえるうちの子供たちにも、自分の周りに住む人たちの生活についてももっと考えて欲しいと思っていたのでした。

 次の日も、仁はまた隣の集会場に行って、同じ子に今度はボールの作り方を教えてもらって来ました。今日は名前もちゃんと聞いてきました。「ママ、ヒルグワに、お礼にあげるいらない服ないかなあ?お母さんが、洋服が欲しいと言っているんだ。」早速数枚見繕って、着ていない服を差し上げました。翌日、まだそれらの服を着るには小さいヒルグワが、服と一緒にあげた帽子をかぶって隣の敷地から手を振ってくれました。私は長い間、何かきっかけがあれば、近くの方々に「何かしてあげたい」という風に思っていたのですが、仁は、「相手に教えてもらう」ということできっかけを作ってくれました。これからすこしずつ、仁が作ってくれたヒルグワとの関係が広がって、そのご家族と、そしてまたそのご家族を通して近くに住む方々との関係が広がっていったらなあ・・・と希望を持っているところです。

《感謝》

     子供たちの2学期が無事終了しました。

     家族にビスケット(猫)が加わりました。

《祈りのリクエスト》

     子供たちの日本語の勉強が維持できますように

     現地の方とのよき交わりが与えられますように  

     教会生活が充実しますように

     恵に家庭の外にも働きの場が与えられますように

     和之と私のルワンダ語が上達しますように

                                                     7月20日記

                                     


2006年7月18日 ルワンダから佐々木恵です NO6


2006年8月15日掲載

ルワンダでは雨期が明け、乾季に入りました。少々埃っぽくなってきたように感じますが、朝晩は涼しく、長袖が必要です。さて、長引いていた車の購入の件がやっと片付き、とても状態の良い中古のランドクルーザーを手に入れることができました。また、最後に残っていた私の滞在ビザも先週発行され、気になっていたすべてのことがやっと片付きました。本当にここまで長い道のりでしたが、これでやっとここでの生活が落ち着いてはじめられます。皆様のお祈りを、本当にありがうございます。

 

「労働力」

イギリスからの荷物を4月の末にやっと取得し、洗濯機の備え付けをしていたときに、ちょうどルワンダ語の先生が来ていました。「洗濯機はクリーニング屋の大きいものしか知らない・・・」というので、さっそく見せてあげたらとても感心していました。家庭用の洗濯機は始めてみたらしいのです。洗濯機が一般の人にとって高級品ということももちろんありますが、こちらは、ある程度のお金持ちでも、洗濯機は使いません。ほとんどの家には使用人がいて、家のことは使用人が一手に引き受けているからです。掃除・洗濯・料理・子守、これらのことは、安い賃金で人の雇えるここでは、使用人の仕事です。だから、洗濯機もいらない。きっと冷蔵庫のない家も多いでしょう。肉野菜は欲しいときに買いに行ってくれる労働力があるからというわけです。

また、これはエチオピアでもそうだったのですが、高等教育を受けた人、あるいは経済力のある人は、いわゆる力仕事はしないようなのです。先日、あるルワンダ人の知人に借りていたポリタンクを返すときのことです。たくさん借りていたポリタンクがあったので、「一緒に運んでくれないか?」と和之がその方に頼みました。ところが「それは使用人に頼みなさい。それが彼の仕事なのだから。」と言われました。主人のするべきこと、使用人のするべきことがはっきり区分されているようなのです。

我が家でもルワンダ人男性二人を雇っています。フォースティンさんは住み込みで、夜警と庭の手入れ担当、ヴィエナさんは通いで、昼間の門番兼、掃除とフォースティンさんの晩御飯を作ってもらっています。アフリカでは比較的治安のいいルワンダといっても、門番は欠かせません。しかし、門番の仕事だけでは時間をもてあますので、ルワンダの多くの家庭では、色々な他の仕事もしてもらっていると言うわけです。彼らのもらう給料は一ヶ月3万5千フラン。7千円程度です。ちなみに小学校の先生の月給は2万円に満ちません。


「病院での経験」

 

5月6日お昼頃、胃の調子が悪く疲れた感じがするのでベッドに横になりました。しばらくすると、急に気分が悪くなり、下痢・嘔吐にみまわれ、そのあとひどい悪寒と関節痛におそわれました。湯たんぽをしても寒さは収まらないのです。マラリアかもしれないと思い、急いで救急病院に行くことにしました。そのときにはもう悪寒の峠は越えていたものの、体がだるく、39度以上の熱もありました。ベッドに寝かされ、採血・点滴・注射を受けました。診断はマラリアではなく食中毒。荷物の整理で疲れていたところに何か悪いものがあたったのでしょう。

この病院でとても心地よかったのが医師の対応でした。とても暖かで、日本の医者の診断よりもっと信頼できる思いがしたのです。日本では、検査結果に重きを置きすぎて触診を怠っているように感じていたからです。日本滞在中にいくつかの病院に行きましたが、しっかり触診をしてくれたところはあまりなく、そのことが不思議に思えてなりませんでした。消化器の先生でさえ、胃・腹部を触ることもなく、視診・問診と検査結果のみの診断でした。また、こちらの心配・訴えをはなから受け付けず、医師に対する信頼が全くもてないというケースもありました。その経験にくらべ、このルワンダ人医師は、しっかりと触診をし、私の不安もちゃんと受け止めてくださり、とても安心できたのです。

結局、夕方4時頃に病院に行って、帰ってきたのは、10時過ぎでした。病院では一泊するように言われたのですが、点滴・注射で大分気分もよくなっていたので、家でゆっくりとした方が安心できると思ったのです。日曜の夕方にやっと普通の生活にもどりましたが、しばらくはお腹の調子が悪く、元気がでない日々が3週間ほど続きましたが、今はもうすっかり元気です。


「ルワンダ人の訪問」

 

ルワンダ人は、人の家をよく訪問します。私たち家族がルワンダで生活を始めるようになって、何組の訪問を受けたでしょう。最初は、「どうして招待ではなく、こちらを訪問するのだろう?」と不思議に思ったものです。日本でもアメリカでもエチオピアでも、そしてイギリスでも、私たちはよく人を招待しました。「親しく交わりたい」と思うとき、招待という形に自然となったのです。また、反対に多くの招待も受けました。しかし、ここでは、招待よりまず訪問なのです。はじめは不思議に思えた訪問でしたが、慣れてくるとその訪問がとてもうれしいものになってきました。彼らは訪問することでこちらの近況を尋ね、相手を気遣ってくれているのです。もちろん、招待されるケースもないわけではないですが・・・。自分のうちに人が尋ねてくれるというのは、本当にうれしいことです。たいした接待をするわけではありません。こちらでとれるおいしいピーナッツやパッションフルーツジュース、紅茶などをだして、楽しくお話をする、ただそれだけの接待なのですが、自分の家にいろんな人が集うということ、そのこと自体が神様の祝福だと思われるのです。そういうことに気づかされたとき、招待されるより訪問するというここの文化に納得し、彼らが訪問してくれることが、うれしく感じられるようになりました。いろんな人が楽しく集える、来た人がハッピーになれるそんな我が家になりたいものです。

ところで、うちではお客さんが来ると、必ずピーナッツを出すことにしています。ピーナッツはジャガイモに次いで こちらに来て特においしいと思ったもののひとつだからです。前回訪問があったときは、ピーナッツをうちで煎ってみました。生のピーナッツがたくさんあったからです。こどものころ、たしか、母が生のピーナッツを煎っていたような記憶がありますが、自分で煎ったことは一度もありません。生のコーヒー豆や大麦(麦茶用)はエチオピアにいた頃よくいったものでしたが・・・・。ともかく塩をまぶして煎ればいいのだろうと思い、炒り始めました。ところがなかなか塩味が絡まないのです。ヴィエナさんがその様子を見て、助け船を出してくれました。だいたい煎りあがったところで、塩水をまぶすのだそうです。そうすると、水分が蒸発した後、残った塩がピーナッツのまわりに白くからみつき、しっかりとした塩味がつくというわけです。知らなかったことを知るというのは、おもしろい発見です。理屈では分かっていることを、実際に見て「なるほど!!」と納得する。それまで赤い薄皮で覆われていたピーナッツがサーッと白く粉を吹いていく様は見ていてとてもおもしろかったです。そして、炒りたてのピーナッツの味は又格別でした!

《感謝》

・滞在ビザの取得、車購入のための手続きなど、ここでの生活に必要なすべての手続きが完了し、落ち着いて生活できるようになりました!

・食中毒からの回復

《祈りのリクエスト》

・和之の健康(だいぶ、落ち着いてきましたが、引き続きお祈り下さい。)

・ルワンダ語の学びが充実するように

・子供たちの学校生活が充実するように(先生がたからの勉強にたいするプレッシャーが強く、周期的に不満が高まるようです。)

・現地の方とよき交わりが与えられるように

                                 6月7日記



2006年5月掲載

皆様、ご無沙汰しています。お元気ですか?先日、やっとイギリスから送ったコンテナの荷物が届き、その片付けがようやく終りました。今までは必要最低限のもので生活していたので、少々不便も感じながらの生活だったのですが、やっと我が家らしい環境が整いほっとしています。

しかしその一方で、急に物が増え、その多さに少々圧倒されてもいます。イギリスで生活していたときは、感じなかったのですが、ここルワンダで私たちは、確かに「持てる者」なのだということに気づかされます。どのようにして、「分かち合う」ということを、実現できるのでしょうか?わたしのこれからの課題の一つです。

この便りは、大分前に書いたのですが、送信が今日になりました。




「ルワンダ語の学び」

「ルワンダより佐々木恵ですNO4」に、「ルワンダ語の学びが始められるように」との祈りのリクエストをしましたが、NO4を出したすぐその直後、ルワンダ語の学びが始まりました。英語の教授法を勉強している方に、週二回一時間半ずつ教えていただいています。
学びはとても楽しく、毎回わくわくしながら勉強しています。カトリック教会で使っているルワンダ語の詳しいテキストブックを使って、文法を学びつつ、会話の勉強もしているのですが、それまで耳で何度聞いても、ただの音としてしか頭に入ってこなかったルワンダ語が、意味を持った言葉として耳に入ってくるようになりました。勉強以外の時間にも、門番のヴィエナさんが先生代わりになって色々教えてくれます。会話の上達にすぐにはつながるわけではありませんが、気長に取り組んで生きたいと思っています。

先週チミロンホマーケットに行った折りには、相手の言う値段を耳で聞いて理解して、お金を払うことができました!それまでは聞いても分からないので、値段を紙に書いてもらっていたのです。一番基本的な数字なのですが、3ヶ月以上たってやっと、実地でつかえるようになったのです。小さな進歩に一人でニヤニヤ・・・・満足感を覚えているところです!

さて、以下にいくつかのルワンダ語を紹介します。

ワラムツェホ・・・・・おはよう
ウィリエホ・・・・・・こんちには
ウラベホ・・・・・・・さようなら
ウラコゼ・チャーネ・・本当にありがとう
オヤ・・・・・・・・・いいえ、ちがいます(No)
イェーゴ・・・・・・・はい、そうです。(Yes)
ウルセエンダ・・・・・とうがらし
アマホロ・・・・・・・平和
イマナ ニンジーザ・・主はすばらしい



「ギセニ旅行記」

イースターホリデーの最後の土曜日、家族で一泊旅行に出かけました。キブ湖という大きな湖沿いにある「ギセニ」という町です。
ギセニまでのドライブは、本当に見飽きることのない景色が続きました。
キガリ市街を出ると、道は丘の斜面を一気に駆け上がり、山陵を走る道が続きます。雨上がりのその朝は、左手の谷間に雲海が広がっていました。その美しい景色に早朝に家を出たことを感謝しました。道はいくつもの峠を越えながら真北に向かいます。両側に並ぶ丘の斜面はパッチワークのように色とりどりの畑がひろがり、頂上まで耕されています。

 その斜面に、人がはいつくばるようにして鍬を入れていました。人口密度が高く、農業従事者の多いルワンダでは、このように、丘という丘、山という山がほとんど耕しつくされているのです。ある村は、村中バナナの森です。バナナの森は丘の頂上まで続きます。途中、道沿いの斜面の穴に、ウサギを見つけました。その傍らで、バナナの葉っぱで作ったバスケットに、卵を入れて売っています。そして、穴のウサギも一緒に売っているのです。ルワンダでは、ウサギも食肉用です。私はまだ食べたことはありませんが・・・・

しばらくいくと、平地に茶畑が広がっていました。紅茶は、ルワンダの主要輸出産品ですが、ちょうど、大勢の人が出て、茶摘みをしている最中でした。そういえば、日本もそろそろ新茶の季節ですね!

道はルヘンゲリという町で今大きく左に曲がり、今度は真西に向かって伸びていきます。この町に入ってすぐ、目の前にカリシンビ山が飛び込んで来ました。共喜が学校で習った「ルワンダで一番高い山」です。


標高は4507メートル。
この山から流れ出る栄養なのか、畑の色は黒色を帯び、いかにも肥えています。道路では、この地域で採れた玉葱・ジャガイモ・ねぎ・にんじんなどの野菜を満載にした、キガリ方面に向かうトラックを何台も見かけました。

目的地につくまでに、いくつの町や村を通過したのでしょう?それぞれの村や町では、土曜市が開かれていました。



市場へ向かう人たちが、頭に収穫物を載せて、私たちの進行方向と同じ方向に流れていきます。市場を過ぎると、今度は人の流れは私たちに向かって流れてくるのです。日本で言うと、まるでお祭りでもあるかのような人の流れです。市場は、村人にとって欠くことのできない週に一回の祭りのようなものかもしれません。

目の前に急に空のように湖が広がりました。キブ湖です。



目的地です。ここから5キロも行くとそこはもうコンゴ。鹿児島の坊津という、入り江の多い海岸線に似たところがあったり、近くには数年前に大爆発した火山もあったりと、景色のとても美しいところでした。夕方になると、ボート3隻が横に連なって漁に出かけます。ボートの上では漁師が歌うようにかけ語をかけてボートをこいでいました。



そして、暗くなると、そのボートに灯りがともります。空には天の川が白く光ります。こんなにはっきりした天の川を見たのは何年振りでしょう。本当にミルキーウェイでした。

*イースターの日の様子は、和之の報告(追悼週間手記#3 4月24日記)をご参照ください。


<余談>
実はこの旅行、金曜からの予定で、その日の2時過ぎに家を出たのです。ところが、一時間半ぐらい走ったところで車を止められ、制服を着た人にパスポートを見せるようにいわれたのです。まるで、検問所のようなところでした。「私たちはキガリにすんでいて、ギセニに行きたいだけだ。」と説明したら、とつぜん、係りの人が笑い出しました。
"Sorry, Sorry! You've lost 100 kilometers. You are in Uganda! "
なんと、道を間違えて、ウガンダ国境まで行っていたのです。たった、1時間半走っただけだったのですが・・・・本当にルワンダは小さい国です。結局その日は、キガリに帰り、家に泊らなければなりませんでした。キガリを出る時点で、全く違った道を選んでいたと言うわけです。「振り出しに戻る」とは本当にこのことでした。



「ルワンダに生活すること」

前回のルワンダ便りで、「ルワンダに行くことは、わたしにとって精神的にも信仰的に大きな負担だった。」ということはおつたえしました。しかし今ここルワンダで、ジェノサイドという歴史を持つこの国で生活することが、わたしにとって大きな意味を持つようになりました。

4月7日は、12回目のジェノサイド記念日だったのですが、その日から1週間は、追悼週間でした。ですから今年の受難週は、ジェノサイドの追悼週間とちょうど重なったのです。いままで、受難週・イースターと言うのは、教会カレンダーの中にある行事ではあっても、それが私にとって意味のあるものとしての迫りがほとんどありませんでした。しかし今年、ルワンダで受難週・イースターを過ごしたことで、ある迫りをもって来るようになったのです。

追悼週間第一日目の7日、
アマホロスタジアムでジェノサイド犠牲者の追悼集会がありました。私と和之もそれに参加したのですが、そこで、いまだに12年前の経験に悩み、恐れ、叫び声を上げている人たちの存在に触れたのです。国民の90パーセントがクリスチャンといわれるこの国で起こった悲しいつらいこの歴史は、いったい何を語っているのでしょう?クリスチャンであることの意味は何なのでしょう?私はどのよう生きればいいのでしょう?子供たちに何を伝えていけばいいのでしょうか?クリスチャンとしての生き方を根本的に問われる体験でした。イエス様の受難は、2000年前に起こった遠い昔の出来事ではなく、ここルワンダのクリスチャンにとっては、自分の体験と重なる、いまなお続く苦しみなのです。そのようなことを思いながらすごす受難週は、今までのそれと違って、イエス様の苦しみがとても現実的なものとしてつたわってくる受難週となったのです。
私はルワンダに来てからと言うもの、本当にたくさんの恵をいただいてきました。感謝しています。

これからは、この受難週にいただいた問いを自分に問いかけながら、その問いの中で与えられる恵を皆さんと、家族と、友人と、ルワンダの人たちと共有していきたいと思います。



   
*ジェノサイド記念式典の様子は、和之の報告(追悼週間手記#1 4月9日記)をご参照下さい。
   
《感謝》
・鹿児島の母の回復
・労働許可と滞在ビザの取得
・イギリスから送ったコンテナの荷物がやっと取得できました!
・ルワンダ語の学びが始められたこと

《祈りのリクエスト》
・和之の健康(病院に通っていますが、耳なりが続いていてなかなか治りません。)

・ルワンダ語の学びが充実するように
・子供たちの学校生活が充実するように
・現地の方とよき交わりが与えられるように
                            4月29日記

2006年4月24日 追悼週間手記3

祈っていて下さる皆様へ

遅ればせながら、イースターおめでとうございます。皆様はどのようなイースターを迎えられたでしょうか。私たちは家族五人、ルワンダで初めてのイースターを、コンゴ民主共和国との国境にあるギセニというところで過ごしました。キガリから北西約180キロ、キブ湖という大きな湖に面した地方都市です。このギセニを含むルワンダ北西部は、つい6・7年前まで激しい内戦が続いていたところです。国境の向こう側、コンゴ民主共和国の東部は、過去10年間に渡って内戦が泥沼化し、今も世界で最も悲惨な地の一つに数えられるところです。
ギセニに到着するまでの間に、「UN」と大きく書き込まれた、白塗りの軍用トラックやジープ(国連平和維持部隊の車両)を何度も見かけました。

イースターの朝の様子を恵の日記からご紹介します。

イースターの朝は、遠くで聞こえるコーランの音楽で目が覚めました。
そしてしばらくすると、教会からの太鼓の音です。朝一番の礼拝に集う人々を礼拝堂へと招き入れる歓迎の太鼓のようです。ルワンダの民族楽器の一つなのでしょう。
心を沸き立たせるその太鼓のリズムに、私も様子を見に礼拝堂のほうに行ってみることにしました。
太鼓の音に誘われるように人々が教会堂に向けて歩いてきます。
礼拝堂の入り口の横には縦長の大小太鼓が5・6個、地面に直接置かれ、ばちを持った叩き手が息のあった様子でそれを叩いています。それぞれに違ったリズムをたたいているのですが、しかしそれが合わさって一つの複雑なリズムと音になり、聞いていてあきません。
リーダーのあいずにより、時々演奏曲もかわるようです。イースターの朝の喜びをいっそうかきたてるかのような太鼓の音です。ルワンダの人が、自分たちの音楽で祝うイースターの朝の喜びに、私も参加させてもらったように感じました。

家族でのデヴォーションの後、ギセニの町で朝食をとり、それから以前数回訪ねたことのあるバプテスト教会に向かいました。礼拝の開始時間と知らされていた朝9時半に到着すると、既に聖歌隊による賛美が始まっていました。中に入ると、座席は既に最後列までびっしりとうまっていて、少なくとも500人くらいはいたでしょうか、会堂の中には熱気がもうもうと立ちこめていました。

この日の礼拝は、イースター特別礼拝ということで、ギセニ地方にある六つのバプテスト教会の合同礼拝でした。そこに集っていたのは、お母さんに抱かれた赤ちゃんからお年寄りまで、様々な年齢層の人たちでした。また、背広姿で役所勤め風の男性から、色鮮やかな布地を身にまとった農家の女性たちまで、様々な職業・社会階層の人たちが集まっていました。

ルワンダで礼拝に与っていていつも思うことは、賛美の豊かさについてです。
アフリカの明るいリズムと美しいハーモニー。集っている人々みなが、それに合わせてステップを踏み、子どもたちからお年寄りまで、何とも楽しそうに踊りながら賛美するのです。

「イエスは死に打ち勝ち、甦られた!私たちは新しくされ、主と共に生きる!」賛美歌の一つはそう繰り返していました。「死に打ち勝つ」、「甦る」、「新しくされる」、そして「主と共に生きる」。そのとき、これらの言葉の一つひとつが、リアリティーをもって私に迫ってきました。私はこれらの言葉の中に、そこに集っていた人々の心の底からの祈り、そして、彼・彼女らの希望の歌を聴いたのでした。

佐々木 和之

2006年4月24記

2006年4月14日 追悼週間手記2

日本で祈っていてくださる皆様へ

イエス様が十字架に架かられた聖金曜日にこの手記を書いています。今日ルワンダは国民の休日です。
日本とルワンダ、遠く離れていても、皆様と共にイエス様の十字架を想起しながら、今日一日を過ごせることを感謝いたします。

4月7日のジェノサイド記念日、
キガリの約南西300キロにある地方都市チャンググで、中央政府主催の記念・追悼集会が行なわれていました。
カガメ大統領をはじめ、政府要人の多く、そして、各国大使や国連など国際機関の代表者の多くが、一般市民と共にこのチャンググの集会に参加していました。

翌日の4月8日にその式典の一部をテレビで見ることが出来ました。ちょうどカガメ大統領が、来賓を前にして演説をしているところでした。その日の大統領の演説ぶりは、いつになく熱を帯びているように感じました。演説の途中、それまでニャルワンダ語で話していた大統領が、突然英語で語りだす場面がありました。それは、ジェノサイドを放置した国際社会の責任について触れた時でした。

大統領は、来賓の各国大使や国際機関の代表者の方を見据えながら、彼らが分かるように英語で、ルワンダを見捨てた諸外国の責任を追及したのでした。大統領はその時、彼の演説の前になされたジェノサイド・サヴァイヴァー(生存者)の証言(特に、フツの隣人に匿ってもらった体験について語った部分)に触れ、以下のように問いかけました。

「私たちは先の証言で、虐殺勢力から逃げ惑う人々を助けるために、自らの命を懸けた真のルワンダ人がいたことを聞いた。全く無力の人々の中で、隣人の命を救うために立ち上がった人々がいた。そして、その多くは殺されていった。その時、あなたたちは何をしていたのか?武力においても経済力においても、圧倒的な力を持っていたあなたたちは何をしていたのか?」

 カガメ大統領の批判をどう受け止めるべきか、意見の分かれるところだと思います。ルワンダ政府が、ジェノサイドに関する国際社会の責任問題を「政治的な武器」として度々用いることに対する批判があることも事実です。しかし、この演説を聴いた後、私自身があるルワンダ人の男性に、「あの時、おまえはどこにいたのか?」と問われた時のことを思い起こさずにはいられませんでした。

それは、今から4年前にルワンダを訪ねた時のことでした。私は、ジェノサイド生存者の回復と生活再建を支援するある政府機関の事務所で、何人かの職員の方から話を聞いていました。その時、「仕事の内容を説明してください」という私の質問を遮るようにして、職員の一人である男性がこう言ったのでした。その方は、ジェノサイドの生存者でした。

「質問に答える前に尋ねたいことがある。1994年の4月から7月、おまえはどこにいたんだ?」私は返答に窮し、しばらく言葉を失いました。そして、「その時はアメリカにいました。ルワンダのジェノサイドのことは、新聞報道で知っていたくらいでした」と答えるのがやっとでした。
しかし、その返答が的外れのものであったことは言うまでもありません。彼が私に問いかけていたのは、「俺たちが一人残らず抹殺され尽くそうとしていたあの時、おまえは何処で何をしていたのか?」「おまえは俺たちを見捨てたのではないか?」ということだったのですから。

「あの時、おまえはどこにいたのか?」その男性に出会うまでの間、私は既に何度かルワンダを訪ねていました。ルワンダに関する本を読んだり、虐殺現場となった教会を訪ねたり、ジェノサイド生存者の方々から当時の話を聞いたりしていました。しかし、その男性に「あの時、おまえはどこにいたのか?」と問われるまで、ルワンダの大虐殺は、私にとって他人事でしかなかったのです。
そして、そう問われてなお、「私はそこにいなかった。私に何が出来たというのですか?」という思いを抱きながら、これまでずっと生きてきたのです。

棕櫚の日曜日の翌日である4月10日、
夫婦で持っている朝のデヴォーションの時、私と恵はルカによる福音書の32-49節を読みました。
そして、バプテスト連盟発行の『聖書教育』42-43頁、聖書の学び第2課(4月9日)「十字架の下に」を読み、十字架のイエス様に思いを馳せました。

著者の片山寛先生(西南学院大学神学部教授)はこう書いておられます。「教会とは結局、この十字架の場面を心に刻みつける人々、そこに自ら立ち会ったという心の経験を持つ人々の群れであります」。
そして、その後に黒人霊歌「あなたもそこにいたのか」(『賛美歌21』306)について紹介しておられます。この霊歌は、恵の愛唱歌で、私たちも何度となく歌ってきたものです。

 

    わが主が十字架につけられたとき、

    あなたもそこにいたのか?

    おお、それは私を時折、激しい震えに

    震えに、震えにおののかせるのだ。

    わが主が十字架につけられたとき、

    あなたもそこにいたのか? (片山寛訳)

「あなたもそこにいたのか?」という言葉が、その朝、私の胸の奥深くに入ってきました。そして、イエス様が十字架に架かられたことを記念する今日、この言葉が私の胸の奥でこだましています。片山先生が言われるように、私たちキリスト者は、「十字架の場面を心に刻みつけ」、「そこに自ら立ち会ったという心の経験をもつ」者たちです。そして、「私もそこにいた」と告白する者たちです。

ルワンダではじめて迎える聖金曜日の今日、「あなたもそこにいたのか?」という黒人奴隷の叫びと、「あの時、おまえはどこにいたのか?」というジェノサイドの犠牲者・生存者の叫びが、私の中で交差しています。

主よ、あなたが十字架の上で血潮を流され、息をひきとられたあの時、

あの時、私もそこにいました。

ルワンダで人々が逃げ惑い、殺され続けていたあの時、

主よ、あなたは彼・彼女らと共に、十字架に架かっておられました。

今私は、「あの時、私もそこにいました」と告白します。

人々が血みどろになり、呻いているその時に、

私は心を震わせることもなく、無関心な者としてそこにいました。

そして主よ、あなたは今も、世界中の苦しめる人々と共に、

十字架の上で血潮を流しておられます。

私をそのあなたの十字架の下に、止まり続ける者とさせてください。

アーメン

2006年4月14日記



正確な引用ではありませんのでご容赦下さい。

2006年4月9日 追悼週間手記1

日本で祈っていてくださる皆様へ

今日は棕櫚の日曜日。

私と家族が通っているルワンダの教会では、棕櫚の葉で作った十字架が手渡され、それを持って礼拝に参加しました。皆様の教会では、どのような礼拝が持たれたでしょうか。

私がルワンダに赴任してから6ヶ月、家族が到着してから3ヶ月が過ぎました。

連合いの恵が先日お送りした報告にもありますように、家族みな順調にこの国の生活に順応してきているように思います。そして、3月末にようやく労働許可を取得することができました。

まだ長期滞在ヴィザへの切り替え手続き等が残っていますが、これで一安心です。これまでの皆様のお祈り、ご支援、そしてお励ましの言葉に感謝いたします。

日本では、ルワンダのジェノサイド(集団殺戮)を題材にした映画、『ホテル・ルワンダ』の公開が続いているとのこと、とても嬉しく思います。

皆様の中にも既にご覧になった方がいらっしゃることと思います。つい三日前の4月7日、ルワンダは12回目のジェノサイド記念日を迎えました。これから約2週間は、犠牲者の追悼週間ということで、全国各地でそのための集会が催されます。ジェノサイドの犠牲者は少なくとも80万人と推定されています。12年前のこの時、100日間に渡って、毎日毎日この国の町や村で、数万、あるいは数千もの人々が、恐らく私たちの想像し得る最も凄惨な仕方で殺され続けていたのです。
女性、老人、幼い子どもたちまでもが、ただツチであるというだけの理由で。そして、ツチでなくても、ツチの人々を匿ったり、当時の政権に抗おうとした人々は、「裏切り者」としてこの時に殺され続けていたのです。

 今年は、ジェノサイド犠牲者の追悼週と受難週がちょうど重なりました。このとき、このルワンダの地で経験していること、心に与えられている思い、考えさせられていることなどを、何回かに分けて皆様とお分かちさせていただきたいと思います。

二日前の4月7日、恵と一緒に市内のスタジアムで開催された、ジェノサイド犠牲者の追悼集会に参加しました。私たちのニャルワンダ語の先生であるダミアンさんも一緒でした。私たちが参加した追悼集会は、アマホロ・スタジアム(「アマホロ」はニャルワンダ語で平和の意)で行なわれました。ルワンダで最大、収容人員2万5千人の運動競技場です。午後4時半頃、大勢の群集とともに会場に入りました。そこに集まっていた人々の数は、少なくとも6000人を超えていたと思います。
 小学生くらいの年齢の子どもたちからお年寄りまで、幅広い年齢層の人々がいました。普段着で来ている人々、背広を着てネクタイを占めている人など様々でしたが、紫色のスカーフやショールを襟元に付けたり、たすき掛けにしている人々が多く目に付きました。ルワンダでは、紫色は喪を意味する色なのです。

政府要人の到着を待っている間、スタジアムの大きなスピーカーから、ジェノサイドをテーマにした歌謡曲が繰り返し流れました。哀しげな民謡調の曲からポップス調の曲までありました。そのうちの一曲の歌詞が今も私の耳に残っています。
「ナリムエ・ジェノシーデ・ニガルケ!」「ジェノサイドが二度と繰り返されないように!」という、ルワンダの人々の願いを込めて歌ったものでした。

待つこと約2時間半、政府の要人が到着したということで、式典がようやく始まりました。一分間の黙祷が捧げられた後、「キャンドル行進」のセレモニーが始まりました。事前に会衆に配布されていたキャンドルの一本一本に火が灯されていきました。6000本以上のキャンドルへの点火が終わった後、会衆全員による行進が始まりました。スタジアムの観客席に陣取っていた私たち会衆は、
司会者の指示に従って順序良く地上の陸上競技用グランドに降り立ちました。そして、その後400メートルトラックを辿るようにして行進しました。私と恵は、スタジアムの階段を下りている間、「誰かが躓きでもして、火が衣服に燃え移ったらどうなるんだろう」などと思いながら、恐る恐るゆっくりと歩きました。

行進を終えてから観客席にもどりました。ある教会の聖歌隊が鎮魂歌を歌い終わると、20代後半か30代前半と思われるジェノサイド・サヴァイヴァー(生存者)の青年が自らの体験について証言を始めました。彼は12年前にはまだ中学生だったということです。母親を含め肉親の多くが殺されるのを、目の前で目撃したこと。村で殺戮が続いている間、近くの森の中で息を潜めていたこと。飢餓に耐えかね、食糧を請うために知人の家を訪ねたところ、拒絶されて再び逃げ惑わなければならなかったこと。他の知人の家で匿ってもらっていたところを民兵たちに見つけ出され、顔、頭、体中を大きな石で滅多打ちにされ、道端に捨てられたこと。(民兵らは彼が死んだと思って放置したのだろうということでした。)その青年は、これらのことを声を詰まらせたりすることもなく、たんたんと語り続けました。

当時の体験について語り終えた後、彼は会衆に向かってジェノサイドが二度と繰り返されないように全力を尽くして欲しいと呼びかけました。彼は、虐殺に関与した加害者たちの多くが拘留中に自白し、今では仮釈放になって出身の村に戻っていることに触れ、その人たちの多くが本当に自分の罪を悔い改めているわけではないと断じました。そして、今もルワンダの各地で彼のようなジェノサイドの生存者が口封じのために暗殺され続けているにも関わらず、当局は真剣に捜査しようともしないと非難しました。最後に彼は、「自分も村に戻れば殺されるかもしれない。どうか私たちを守ってください」と訴えたのでした。

ジェノサイドから12年。
今も自分がいつ殺されるか分からないという恐怖に慄きながら生きている人々がいるのです。彼は証言の最後に、何度かニャルワンダ語で「自分は今も絶望の中にいる」という言葉を口にしました。未曾有の大虐殺を生き延びてなお、「絶望」と言わざるを得ない現実の中に多くのジェノサイドの生存者たちが生きている。私が働いているREACHは、まさにこのような人々の癒しのために奉仕すること、そして、そのことを通してルワンダの人々の和解に貢献するという使命を持って働いています。青年の証言を聴き、その働きの重さを感じずにはおれませんでした。

2006年4月9日記

2006年2月14日〜2006年3月15日

ルワンダから佐々木恵です。(NO4)


「あっぱれな木」

うちの庭には、屋根より背の高い大きな木が一本あります。
遠くからでも良く見えるこの木は、我が家の自慢の木です。
朝は早くからこの枝で小鳥が歌い、昼はつがいのトンビが来てこの木にとまります。
このトンビが落とすのか、時々木の下にねずみの死骸があったり、肉付きの骨が落ちていたりもします。こういうときは、愛犬のクッキーもそのおこぼれに与れるというわけです。

この自慢の木には大きな赤い花がたくさん咲いています。
赤というより、オレンジがかった朱色で、大人の拳ぐらいの大きさはあるでしょうか。
キンギョソウを大きくしたような袋型の花です。
ルワンダに来てから二ヶ月と言うもの、この花が毎日毎日たくさん落ちてきます。
椿の花が落ちるように、開ききると、パサッと音を立てて落ちるのです。
夜警のフォースティンさんの朝一番の仕事は、この花を落ち葉掻きで集めて、庭の隅に掘った堆肥用の穴に捨てることですが、毎朝集めてもまた次の日には、木の下はこの花でいっぱいになるのです。

朝、芝生の上に落ちているこの赤い花を何度か数えたことがありますが、ざっと数えても毎回400個以上はあります。フォースティンさんが毎朝かき集めるのですから、数えた花は、前の日からその日の朝にかけて落ちた花というわけです。
いえ、前の日に落ちた花は、乾いて赤黒くなって縮んでいるので、私の数えた花は、前の日の夕方以降に落ちた花に違いないのです。いったい一日に落ちる花の数はいくつくらいになるのでしょう。

子供たちもこの落花を見て、「もったいないよねえ。」といいます。まだきれいなのに、惜しげもなくどんどん花を落としていくからです。しかし、「もったいない」は人間の勝手な思いなのでしょう。身につけたものを惜しげもなく落としつつ成長していくこの木の大胆さは、「あっぱれ!」です。

見上げると、まだまだたくさんのつぼみが付いています。まだしばらくは、この潔い花の落下は続きそうです。

落ち続く 千の花の木 いつとまる  (仁の作った俳句です。ちょっと変ですが、俳句好きの入院中のおばあちゃんに送ったものです。)




「くさいご飯」

わたしたちにとって、お米は、欠くことのできない食材ですが、ここでは、日本米はもちろん、カリフォルニア米もエジプト米も手に入りません。かろうじて、炊きあがりが日本米に近いタンザニア米を使用しています。ところが、このお米がくさいのです。そのうえ、小石が混ざっていて、それを取り除くのに毎日30分除去作業に時間をかけています。小石の中にはお米と同じような色のものもあるので、神経を集中して一粒一粒より分けています。

臭みを取るためには、何回も研ぐ事で対応していますが、完全には消えません。しかしこれも断水となったときにはもう仕方ありません。いつもは10数回は研ぐのですが、二つしかないポリ容器の水でその回数はまかなえませんので、数回程度でよしとしています。

また、停電もしょちゅうのことですので、明るいうちの小石の除去作業は必須です。この前、断水が四日ほど続きました。お風呂嫌いの仁と共喜には、これ幸いといったところでしょうが、主婦にとっては大問題。
2日目くらいになると少々いらいらしてきます。でも、さすがに4日目くらいになると開き直るものですね。4日目の夜中、水はやっと戻ってきました。このときは、事務所のフィルバートさんが、7つのポリ容器で水を何度も運んでくださり、本当に助かりました。くさいご飯と断水にも大分慣れてきた今日この頃です。




「ジェノサイドミュージアム」

先日エチオピアからのお客さんと一緒に、ジェノサイドミュージアムにはじめて行ってきました。

ミュージアムは、ジェノサイドの歴史的・政治的因果関係が分かりやすく説明され、設置されているテレビでは、虐殺生存者の証言を聞く事ができます。その中で、インターハムウェ(もともとは、当時の政府与党によって組織された自衛団ですが、ジェノサイドの時には大虐殺の先鋭部隊になりました)に殺されかけた女性の語っていた言葉が心に残っています。

ツチ族抹殺のために殺人部隊が組織され、ツチ族に対する攻撃が始まったのですが、その時、今まで隣同士で生活していた人たちが、自分を襲う人たちに変わっていったというのです。しかし、そういう状況の中でも、自分を守ろうとしてくれたフツ族の隣人もいたというのです。

「5パーセントの人は本当にいい人で、もう5パーセントの人はどっちつかず、              そして残りの90パーセントの人たちは悪魔だった。」
(実際の数字がどうだったかは分かりませんが)
彼女はそのときの事を振り返ってこう証言していました。

自分が殺人に加担しなければ、その人もツチ族とみなされて殺されかねないという状況の中で、いったい自分は、どういう行動をとろうとするのでしょうか? 最初の5パーセントに入れるのか?それとも90パーセントの中に入ってしまうのか?

最初の5パーセントに入るという自信は、悲しいけれど持ち合わせていません。せいぜい真ん中の5パーセントに留まって、自分を悪魔に引き渡すのを誤魔化そうとするのが精一杯のような気がしました。しかし、確かに最初の5パーセントに留まった人たちがいたのです。

先日、マリアさんという女性が 和之を訪ねてうちに遊びに来てくれました。彼女は、ジェノサイドのによる孤児(今はもう青年になっていますが、)の精神的サポートの必要を感じていて、そのことに自分の時間をさいている方です。実は、後で知ったことですが、彼女自身はフツ族で、ツチ族の子供をかくまっていたために、お父さんに彼女自身殺されかかったと言うのです。
ルワンダにきてから、わたしはまだ、こういう方から実際の話を聞く機会は持っていませんが、和之をとおして、私たちに希望を与えてくれる方々の存在を聞いています。そういう方々とであい、その方々を通して学んでいけたら・・・学びたいと思わされています。

私自身は最初の5パーセントに入るという自信は今はありませんが、主の思いと自分の思いが一つになれるように、祈っていきたいと思います。



「3ヶ月が過ぎようとしている今」

「最初の3ヶ月は必ず落ち込みます。どうぞそのことを覚えてお祈り下さい。」
去年の女性大会の証のときに、会衆のかたがたにお願いしたことです。

さて、ここに来て、3ヶ月がすぎようとしていますが、今まで皆さんをはじめ、多くの方々のお祈りに支えられていることを日々感じつつ過ごしてきました。祈りに力は本当に大きいのですね。
今回の母のことを通し、また、ここでの生活を通し、その確信が与えられています。

実は、和之がミッションボランティアとしてルワンダに行くことは、わたしにとって精神的にも信仰的にも大きな負担だったのですが、今ではその負担が感謝に変わりました。和之がミッションボランティアとしてここで働けるようになったことを通して与えられた恵に感謝しています。

皆様のお祈りに支えられて、この3ヶ月はひどい落ち込みもなく過ごすことができました。

始めの一ヵ月半は、マラリアの薬の副作用で、目眩や吐き気に悩まされ、外出も儘ならないというかんじでしたが、服用をやめてからは、すっかり体調も回復しました。

新しい国に行くと、いつも始めの3ヶ月はどこにも出かける自信がなく、家にいることが多いわたしでしたが、ここではすでに一人でいろいろなところに出かけられるようになっています。うちから東の方向に歩いて15分のインターネットカフェには毎日のように通っています。

最寄りの郵便局へは西に徒歩15分。(ルワンダにはポストがありません。)子供たちの通う学校へは北に徒歩20分。もちろん、これらのところに行くのには乗り合いタクシーもおおいに利用しています。いまのところ、この行動範囲でだいたいの用はかたづけられるので、それ以上はなかなか行動範囲は広がりませんが・・・・。

ルワンダ語が片言でもしゃべれるようになったら、市民の台所チミロンホマーケットにも一人でいけるようになりたいところです。今はまだ、和之の同伴が必要です。さて、これからの課題は、ルワンダ語の学びを初めて、地元の人との交わりを広げることです。

今までは、ここの生活の仕方に慣れるのに精一杯でしたので、乗り合いタクシーを活用できるようになったり、一人での買い物ができるようになった、そういう一つ一つのことに「ルワンダで生活している!」という充実感を味わっていました。

しかし今では、これらのことは普通にこなせるようになり、生活が単調化してきた気がするのです。これからは、人との関わりを広げていかないことには、私の生活も閉ざされてしまいがちです。
そのためにはルワンダ語の学びは必須です。

今週の木曜日にはには、ルワンダ語の先生にあって、お話を伺うことにしていますので、うまくいくと、今月中に学びを始められるかもしれません。

こういうエピソードがあります。
和之が郵便局に行くと、とても愛想の悪いある女性職員が毎回対応するというのです。ところがある日、ルワンダ語で挨拶したところ、その日から彼女の態度は一変して、急ににこにことうれしそうに対応するようになったそうなのです。
実際、私も彼と一緒に行ったときには、奥の部屋にいるほかの女性スタッフの方々まで出てきて、
「この人が奥さんか?」「今度は子供も連れておいで。」と、皆さんがとてもにこやかに対応してくださいました。

その国の言葉を使うというのは、相手の心を解放させてくれる大きな手段です。実際私も買い物をするときに、ルワンダ語で挨拶をするだけで相手の顔が急にほころびるのを何度も経験しています。どうぞ、ルワンダ語の学びが始められるよう、また、この国の方とよき交わりが与えられるようお祈り下さい。

ここでちょっとルワンダの郵便事情をひとこと

ルワンダには、郵便ポストがありません。郵便配達人もいないので、郵便を出すのにも受け取るのにも、郵便局に行かなければならないのです。
また、小包を受け取るときは、内容物の価値だけでなく郵便代に対しても関税がかかります。いちど、国際速達郵便を受け取ろうとしたとき、これに200ドルくらいの税金がかかり、驚いたことがあります。
幸い、このときは知らなかったということで、多めに見てもらったのですが・・・・・。

書籍・文書にはかかりませんが、食品の受け取りは禁じられているようです。それから、ルワンダフランは1フラン=0.22円。普通2・3枚の手紙を日本に出すのに、800フラン位します。
ですから、少々かさ張る手紙を出すと、2000フラン以上になり、封筒の表が切手だらけになってしまいます。
単位が大きい上に切手の大きさも大きいのです。宛名を小さく下のほうに書かないと、切手を貼る所がなくなり、困ったことになるのです。



祈りのリクエスト

 ・和之の労働許可がおりるように
 ・子供たちの学校生活が充実するように
 ・鹿児島の母の術後の回復が主によって守られるように
 ・ルワンダ語の学びが始められるように
 ・現地の方とよき交わりが与えられるように


2006年2月14日

   「ルワンダの学校生活」

ルワンダの生活も、一ヶ月が過ぎました。
子供たちもすっかり学校になれ、朝6時起床、夜9時就寝のリズムも家族に定着しつつあります。

一番ハッピーに学校生活を送っているのは共喜です。
特に、ルワンダ語の授業は彼の「めっちゃ楽しみ」な授業のようです。
先日、先生が、「知りたいルワンダ語がありますか?」というので、
「あなたのポテトチップスはおいしい。」という言い方を教えてもらったそうです。
家の番をしてくれるルワンダ人の男性・ヴィエナが作ってくれるポテトチップスが本当においしくて、
子供たちの大人気なのですが、共喜は、そのことをヴィエナに伝えたかったようなのです。
「イフィリテ ザーウェ ジェラジョーシェ! 」
今のところ、共喜のルワンダ語の上達が一番早いようです。
一方私はやっと、1から10を覚えたところ、
これでは、チミルンホマーケットでの買い物もまだまだ一人ではできません。
それでわたしも、共喜が覚えてきたルワンダ語を復習するとき、一緒に教えてもらうことにしました。

すっかりクラスの友達に溶け込んでいるのは仁です。
迎えに行くと、必ず何人かの友達と楽しそうに遊んでいます。
彼は、友達を作ることにおいては、本当に優れた才能を持っているようです。
鹿児島の3ヶ月でも、一番友達関係が充実していたのは彼でした。
肌の色・国籍・を超えて、相手を一人の人としてみるということは当たり前のことですが、
実際はなかなか難しいことのように私には思われます。
子供たちが、こうして友達と自由に遊ぶ姿は本当にうれしいことです。


萌は、帰宅後、日本からの通信教育の勉強を頑張っています。
肝心の学校のほうは、「板書ばかりが多くてつまらない。」と不満気です。
気の会う友達ができてからは、大分楽しくなってきたようですが、授業に対しての不満は変わりません。
その分、通信教育のほうで頑張って、
日本での勉強をキープしておきたいと思っているようです。
下の二人も通信教育を受けているのですが、学校の宿題との両立が難しいところです。
まだまだ自主的に・・・というわけにはいかず、
日本語もある適度まではできるようにさせたいと思っている両親にとって、
このことは大きな頭痛の種です。

   「高校生からのプレゼント」

さて、先日日本から、大きな箱で荷物が届きました。
中身は、春に和之が帰国した際訪問した、北陸学院中学校の生徒さんが作ったパッチワークの壁掛けです。
たたみ三畳分はあろうかというこの作品は、中学生一人一人が作った平和のメッセージ入りの布が繋ぎ合わされています。実は、このパッチワーク、12月に日本をたつときに、手元にあったのですが、あまりにもかさ張ったために、手荷物として、もって来られなかった物でした。手元にはありましたが、広げるに十分な場所もないほどだったのです。それほど、大きな作品です。はじめてみたこの色とりどりの布で繋ぎ合わされた作品は、中学生一人一人の個性が集まって、一つの和を生み出しているすばらしいものでした。

先週、このパッチワークをリーチの事務所に運んで、壁にかけました。天井から下げても高さが足りないほど、下はだぶついていましたが、殺風景な和之のオフィスがとても明るくなりました。さっそく、REACHの総主事フィルバートに披露すると、彼もこの作品をみて、中学生の思いに感激しているようでした。
この作品の中央には、いろんな肌の色をしたいろんな国の人が手を繋ぎあって地球の上に立っている絵がデザインされています。国と国、民族と民族、宗教と宗教による対立を乗り越えて、この絵のように人と人が手を取り合えたら本当にすばらしいのに・・・・と思わされました。

フィルバートと和之はこのパッチワークの前で握手をして、記念写真を撮りました。北陸学院の中学生に送るためです。私たちもまたこの絵のように、お互いの中にある色々な違いを受け入れて、手と手を取り合うものでありたいです。
平和のキルトの前でフィルバートと
   「ヒーローズデイ」

昨日2月1日は、「ヒーローズデイ」という国民の休日でした。10年前の、出来事を覚えるための休日です。

1996年、フツ至上主義ゲリラがある寄宿学校を占拠して、子供たちにフツ族とツチ族に別れるように言いました。ツチ族の生徒を殺すためです。
しかし、生徒たちは、「私たちはフツ族でもツチ族でもない。ルワンダ人だ。」と言って抵抗したそうです。
そうして、抵抗した子供たち全員が射殺されていったのです。政府はこの子供たちの勇敢な行動を記念して、2月1日を国民の休日と決めたのです。昨日は、いろんなところで、この事を覚える集会があったようです。

さて、私たちはこのヒーローズデイに、キガリから車で一時間半ほど東に行ったムハジという湖に行ってきました。私と子供たちにとっては、初めてのキガリの外に出る小旅行でした。道路わきに広がるバナナの林や丘に囲まれた静かな湖。道路際で客待ちをしているタクシー代わりの自転車。

川辺にはパピルスが茂り、紐でも編むのでしょうか?男の人がそれをガードレールにたたき付けて、繊維にしていました。

ビニール袋にいっぱい詰めた卵を車が通るたびに差し出す子供たち。今日とれた卵を売る事で、家計の足しになるのでしょう。いつもとは違うこれらの風景にわたしの心は和みました。
ムハジ湖畔で
これらの風景の中で、私の印象に強く残っているひとりの姿があります。

畑仕事の帰りだったのでしょうか。鍬を肩に担いだ女性が道路わきをはだしで歩いていました。彼女の足取りはとてもたくましく、一歩一歩しっかり地面を踏みしめていました。その顔には満足感が漂い、自信に満ち溢れているようでした。
私は彼女の姿に生きる力を感じ、すがすがしさを感じました。
神様に与えられたその場所で、しっかりと地に足をつけて生きる人。どこにあっても、与えられたその場所で、その日一日を精一杯生きている人たちの姿は、生き生きとして美しいです。

こちらに来てからというもの、高地の生活に順応できなかったり、またマラリアの薬の副作用でめまいや吐き気がしたりと体調が悪く、外に出かける意欲の出なかった私にとって、この女性の姿は印象的で、あるべき姿を指し示すものでした。

わたしはここで精一杯生きているでしょうか?慣れない生活を理由に現実から逃げ、神様が与えようとしている贈り物に顔をそらしてきてはいなかったでしょうか。

「私の恵はあなたには十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリント第2 12:9)

どうぞ、安心できるところに踏みとどまるのでなく、新しい一歩を踏み出していくことができるようにお祈り下さい。
また、体調が整えられるようにお祈り下さい。

祈りのリクエスト
 ・子どもたちが、充実した学校生活を送られるように。
 ・和之の労働許可が下りるように。
 ・毎日の生活が主によって守られるように。
 ・恵の体調が整えられ、この地の生活に適応できるように。
ムハジ湖畔

 

 


2006年1月17日

友達のアレックスと

ここに来て3週間が過ぎ、すっかり体もここの気候に慣れてきました。はじめの2週間は、標高約1500メートルという高地のためか、頭がぼおっとして目眩もし、家でゴロゴロしている日が多かったのですが、先週から調子も戻り、元気が出てきました。子どもたちの学校生活も一週間が過ぎ、少しずつ様子も分かってきたようです。共喜は、カガメ大統領の息子さんのブライアン君と同じクラス。彼にとってそれはとてもビッグニュースのようで、しばらくはその事ばかり話していました。「ブライアンも僕とおんなじで、上の前歯が全然ないんだよ!」とうれしそうです。

新しい環境にも期待を持って挑んでいく子どもの姿は、本当にたくましく、わが子ながら感心しています。きっと、色々な不安や心細さもあるのでしょうが、第一日目、不安そうにしながらも、振り返りもせずに自分のクラスに入っていくその後ろ姿がまぶたに焼きついています。兄弟げんかが絶えなかったり、お行儀が悪かったりする子たちですが、このたくましさには私も一目おいています。

神様に守られ、皆様のお祈りに支えられていることを深く感じます。
 
ミニバスの写真 この前、ミニバスに乗ってチミロンホマーケットへ行ってきました。

このミニバスは、日本製の中古ワゴン車(トヨタのハイエース等)を改造したものですが、総勢20人を詰め込んで走ります。それまで何回か生活用品を買いに町に出かけたことはあるのですが、ミニバスに乗って市場へ出かけるのは初めて!

庶民の足とも言えるこのミニバスは、一区間約20円。ケニアのマタツーは有名ですが、それと同じです。狭いシートにひざを寄せ合い、現地の人たちと一緒に座っていると、「ルワンダで生活してるんだあ!」という充実感でいっぱいになり、うれしくなりました。

肉屋のお兄さん それまで調子が悪く、家にいることが多かったので、この日の経験はとても刺激的でした。市場はごみごみとして汚く、一瞬身を引いてしまいまたが、活気であふれていました。野菜・果物・肉魚・衣類・日用品、ともかく何でも売っています。
市場のおばさんとめぐみさん

「だまされちゃあいけない。」「お財布すられちゃあいけない!」と硬くなっている私と対照的に、和之はとても精力的。市場の中もすっかり把握しているようで、どんどん買い物をこなしていきます。

しっかりと野菜を吟味したり、下手なルワンダ語でしたたかに値段の交渉をする彼に、売り手のお兄ちゃんやおばちゃんたちも嬉しそう。

いったい私にもこういう日が来るのでしょうか?市場の雰囲気に圧倒されて、少々気落ちしてしまいましたが、「まずルワンダ語を覚えなくては!」と、強く思わされました。

ここ2・3日、長女の萌がお腹を壊しています。学校で食べた給食のサラダが原因でしょうか?来たばかりのこの時期に、外で生野菜を食べるのは禁物なのですが、学校給食の事をうっかりしていました。

ここでは、健康管理は子どもも自ら気をつけなければならない大切な課題です。

蚊帳と、蚊取り線香(or ベープマット)も、マラリヤ対策として毎晩必須。子どもたちは、蚊帳をベッドとマットレスの間に押し込んで隙間をなくしてからの就寝です。

話は変わりますが、ルワンダで面白いモップが使われています。モップと言うより、ワイパーなのですが、床がコンクリートやタイルが多いここでは、床に水を直接まいて掃除をします。主幹道路をはずれると赤土の道路が多いここでは埃も立ちやすく、箒や掃除機では間に合わないようです。床にまいた水は、この「ワイパーモップ」で掻き出されるのです。とても便利で、家でも愛用しています。子どもたちも面白がって掃除を手伝ってくれています。

はじめの2週間は体調が悪かったことは先にもお伝えしましたが、そのとき、やはり気分も落ち込んでいました。買い物一つにしろ、思うものが買えない・・・・いや、この国では手に入らないものがたくさんあるという現実に、その不便さに圧倒されていました。

一つのものを買うのに、たとえば包丁一本にしろ、何軒ものお店を回り、同じ店に何度も足を運び、それでも満足のいく物がなくあきらめたり、妥協したり・・・・こんなことは依然暮らしていたエチオピアでいくらでも経験して知っていたつもりだったのに、イギリスの5年の生活、そして日本での4ヶ月の滞在で、すっかり便利な生活、欲しい物はお金さえあれば手に入ると言う生活に慣れてしまったようです。

簡素な生活を心がけ、つつましく生活していたつもりだったのに、知らず知らずのうちに身に染み付いていた感覚。これは新たなカルチャーショックでした。知っていたつもりだったのに、経験してみてまた新たに気付かされる現実。

そして、その現実を受け入れていかねば生活できないということ。これからも、こういう事をたくさん経験しなければ、分からないことがいっぱいあるでしょう。

心がそれに適応するのに時間がかかりますが、贅肉が取れていくような心地よい感じもしています。

こうして、落ち込んだり、元気が出たりを繰り返しながら、ここでの生活に馴染んでいくのだと思っています。

テラスから、お気に入りの眺めを見ていると、自分がルワンダにいることが不思議に思えてくることがあります。しかし、すべてが神様の計画の中にある事を思うとき、緊張や落ち込みから開放され、新たな希望が与えられています。

皆様のお祈りに感謝します。

祈りの課題

 ・子どもたちの学校生活が充実するように

 ・友人が与えられるように

 ・この地の生活の仕方になれるように

                                 佐々木恵(2006年1月17日記)

2006年1月9日 

こちらに来て2週間が過ぎました。日本を発つ日には、空港までお見送りに来てくださり、本当にありがとうございました。荷造りで2・3日あわただしく過ごしていたので、皆さんとお別れする時もなんと無く落ち着かないままだったのですが、飛行機に乗り込んで初めて、「これからまた新しい生活が始まるのだ!」と胸がいっぱいになりました。

着いてすぐにクリスマス・お正月とあわただしく過ぎたような気がします。クリスマス礼拝は、こちらで始めての礼拝でした。

今まで経験した沢山のクリスマス礼拝の思い出に、ここルワンダでの思い出が加わることに深い感慨を覚えながら出席しました。どこの国の方だったのでしょう。単純なメロディーの繰り返しが印象的な、とても明い賛美歌を両手を大きく上げて歌ってくださいました。その賛美が今も耳に残っています。

新年は、ルワンダ在住の日本人の方々9人(日本国際協力事業団と国連の関係者)を招待し、我が家で新年会を開きました。私は日本から持参したお餅でお雑煮を作り、和之は鶏をつぶして焼鳥をして、小さい日本人会で楽しく新年をお祝いしました。あと、この新年会に来られなかった日本人の方は6人。私たち家族を入れて、20人の日本人がいるとのことです。

ベランダからの景色 ところで、うちのベランダからの眺めは素晴らしく、小さな丘がいくつか連なっているのを見ることが出来ます。

今、このベランダで朝食と昼食をとるのがとても嬉しく、贅沢な気がしています。

この景色を眺めながら、私もこの景色の中の一員としてしっかり地に足をつけて生活したいと思っています。

まだ、ここの気候になれずに、時々頭がぼおーとしたり、気力の出ない日もありますが、少しずつ慣れてきたようです。


 一方子どもたちは、とても元気です。

愛犬クッキー(生後4ヵ月半)と遊んだり、サッカーをしたり、ゲームをしたり・・・

子どもたちの明るさに励まされています。クリスマスの日、お昼を食べながら共喜が言ったことが印象に残っています。

「今日は沢山いいことがあったよ。クリスマスプレゼントをもらったし、教会で楽しい歌聞いたし、おいしいお昼ご飯食べられたし、

そしてこれから誰かのおうちに行くんでしょう?」

このように、小さなことを素直に喜んでいる心の豊かさに感動して嬉しくなりました。

私も彼のように、与えられている小さな一つ一つのことに目を注ぎ、神様に感謝する者でありたいです。
愛犬クッキー

来週からは、子どもたちの学校(現地私立校)もいよいよ始まります。昨日は、編入試験を受けに行きました。テストの結果で、学年がはっきりするようです。月曜からの学校に、共喜は少々緊張していますが、あとの二人は始まるのを楽しみにしています。

萌にとって制服は重要な問題なのですが、グリーンのスカートにカーディガン、グリーンのストライプのシャツにグリーンのタイという制服に、ちょっと不満げです。学校が始まったら、私も大分時間が出来ます。そのうち、乗合バスにも乗れるようになりたいですが、今はまだ、旅行者のような気分で過ごしているので、早く、ここの生活になれて、自由に動けるようになりたいです。

皆さんのお祈りを心より感謝します。ありがとうございます。

祈りの課題

 ・子どもたちが学校生活を喜んではじめられるように。

 ・この地の生活の仕方になれるように。(地理、買い物の仕方)

友人が与えられるように。

                                             佐々木恵(2006年1月9日記)

 


2006年1月4日

佐々木氏の家族が無事にルワンダに到着しました。2005年12月22日

 昨晩6時頃(日本時間午前1時)、予定より約7時間遅れで家族が無事ルワンダに到着しました。荷物も全て無事届きました。かなりの長旅になりましたが、皆健康が支えられ、元気にしています。子どもたちは、元気いっぱい、朝の6時頃から「番犬」クッキーと一緒に走りまわったり、サッカーをしたりして遊んでいます。恵は機内でほとんど眠れなかったということで、昨晩はさすが疲れ切っていましたが、今朝の体調はとても良いようです。家族の無事到着のためにお祈りくださりありがとうございました。こちらの気候や生活に慣れるのにしばらく時間が掛かると思いますが、家族で共に祈り、支えあっていきたいと思います。ルワンダは明日からクリスマス休暇に入ります。今日明日、多少生活に必要な品物の買出し等がありますが、その後はゆっくりできると思います。ルワンダで初めてのクリスマスを、家族一緒にお祝いできることを主に感謝します。どうか皆さまも良いクリスマスをお迎え下さい。
 お祈りとご支援を感謝しつつ